「初めであり終わりである神」イザヤ書44:6-8


 
「わたしをおいて神はない」(6節)。教会の信じている聖書の語る神は唯一なる方です。排他的な悪いイメージを持つ方もいるかと思います。私も最初はそうだったと思います。けれども、やがて聖書の神でなければならないことが分かるようになってきました。

 

  神の目から見たら、人間はみな罪人です。主イエスは常に神と正しい関係をもたれていますが、私たちはそうではありません。それが聖書では罪と表現されています。そういう者は本来は神の栄光を受けられないのです。けれども神の御子が十字架にかかってくださったことによって、義しいものとみなしていただけるのです。神の独り子が私たちに代わって十字架にかかって死んでくださるという方法でしか、私たちの救いがないのです。信仰の先人たちもそこを信じ、洗礼をうけ、教会員となったのです。

 

 信仰の先人たちには世の中で活躍した人も、そうではなかった人も、長く生きた人も、そうではなかった人もいました。けれども同じ神を信じ、同じ信仰をもって歩んだのです。「わたしは初めであり、終わりである」(6節)この方こそが、全てを治められているのです。神は、人間が考え出したものではなく、神が天地万物の全てを創られたのです。そして、終りも神の御手のうちにあるのです。

 

 「初めであり、終わりである」方というのは、全てをご支配しておられるということです。イザヤはこの言葉を捕囚という文脈で語っています。エルサレム神殿がバビロンに滅ぼされ民は捕囚としてバビロンに連れて行かれました。普通の国は、国が滅ぼされるようなことがあったら、そこの国の信じていた神が負けたという理解をするのに、旧約の民は違いました。それは、他の神々の偶像のような御利益信仰でないからです。たとえ自分の思い通りにいかなくても、「初めであり、終わりである」方を信じたのです。自分の都合良く神が動いてくださらないのは、神に力がないからではありません。神は今もご支配されています。私たちが死んだ後もすでに死を迎えている方たちも、この方の支配の元にあるのです。

 

確かに、聖書の神がすべてを治めているように見えないこともあります。けれども、礼拝において神だけが永遠なる方であり、全てを治めておられることが明らかにされています。残念ながら日常生活の場においてはそうはいかないことも少なくありません。けれども救いが完成する終末には、明らかになります。その先取りを今、私たちは礼拝でしているのです。信仰の先人たちもそのような礼拝をしてきたのです。そして今も天上においてそういう礼拝をして、復活の時を待っているのです。

                              (113日逝去者記念礼拝説教要旨)

「救いの光」マタイによる福音書5:13-16


 今日の聖書の箇所をよく読むとあなたはこれから地の塩になる。あなたはこれから世の光となるとは言われていません。「あなた方は地の塩である」「あなた方は世の光である」と言われているのです。すでに地の塩とされている。すでに世の光とされていると言います。自分自身の自覚がなくても、大きな働きができなくても、人の評価がどうであろうが、人の目で見たら何もできなくても、神の目からは地の塩、世の光とされていると言うのです。

  塩というのは、私たちが生きていく上で絶対に欠かせないものの一つです。料理の時に使う塩にも表れていますように、塩の存在感がありすぎると、逆効果になります。適度な塩は他の味を引きたてます。私たちが、主イエスの十字架の救いを引き立てるため、それぞれ用いていただけるのです。塩加減もそれぞれの遣わされた環境とそれぞれの賜物によって変わってきます。それぞれの塩加減によって、主イエスの十字架と復活の福音を伝えていきます。

   塩には防腐剤としての役割もあります。放っておいたらいつ腐ってもおかしくないこの世にあって防腐剤としての塩の役割は大切なのです。。放っておいたら誰も祈っていない会社や地域において、一人だけでも御心がなりますようにと祈ることは大変意味のあることです。世の中にたとえ少数でも主イエスの十字架によって清められた人がいれば、世の存続に意味があるのです。

   14「世の光」とあると私自身が輝くことを考える人もいると思います。そうではないのです。星には、「恒星」と「惑星」があります。「世の光」は惑星の方なのです。私自身が輝くのではなく、主イエスの復活の光を受けてはじめて輝きます。

  光もただ輝けば良いというのではありません。明るすぎると眩しいだけです。惑星なのに恒星のように自ら輝こうとしたら、眩し過ぎたり、どこを照らしたいのかわからなくなってしまいます。15節以下のともしびの話にもありますように、一番良い場所を最適の光を照らすことが大切です。ともしびには、油の補充が必要です。油の補充は礼拝でします。礼拝で十字架の贖いの恵みと復活の光の恵みをいただき、それぞれの生活の場へと遣わされ、周りを照らします。神の思いではなく、自分の思いを満たそうとする闇の世界は人をさばき、自分も裁きます。そういう闇に光が必要なのです。礼拝で復活の光を浴びたら、惑星としてそれぞれの場において輝いているのです。裁きの闇の世の中で赦しの光を放っているのです。

                                                                                                  (106日礼拝説教要旨)   

「神の子なら」マタイによる福音書4:1-11


 
1節にありますように主イエスは悪魔の誘惑を受けられます。不思議なことにこれは「聖霊の導き」によることなのです。聖霊の導き、というともっと違うことを考えたくなります。けれども、私たちがどうしてと思うようなことも聖霊の導きであることもあるのです(使徒言行録166節以下)。

 

 主イエスは悪魔の誘惑に勝たれ、十字架の死に至るまで従順に神の僕としての道を歩まれます。罪のほか、人間と全く同じになられます。主イエスがここで受けられている試みは罪人の受ける苦しみです。私たちが受ける試みを主イエスも受けてくださったのです。

 

 1番目の誘惑はパンのことです。日常的なことです。主イエスが40日間断食して空腹を覚えられた時の誘惑です。ここで悪魔は、パンを神に求めよとは言っていません。悪魔は、主イエスに対しても神同様の力を認めています。神に願うことなく、直接力を表すように誘惑します。

 

 この当時、ユダヤを支配していたローマにとって民を支配する方法はいろいろありました。パンを自由に与えることによって、いうことを聞かせる方法もありました。けれども人はパンだけで生きるのではありません。そう言う綺麗事だけでは生きていけない、と考えたくなるかもしれません。けれども、神の祝福なしでは、パンも命も、何もかも空しいものがあるのです。聖餐の恵みのパンこそ命につながっているのです。洗礼を受けてこのパンを食べる者は、主イエスの復活の命の世界につながっているのです。

 

2番目の誘惑が5節以下にあります。   悪魔は、 神殿の頂上から、身を投げて、神が救いに来るかどうか、試させようとします。何があっても神を試すことなく、信じていけるか、そこが問い続けられます。神を試みるとき、必要ないことをして、神の誠実さを試そうとします。神を試みるものは、信仰者らしく装おうとします。悪魔は、詩編の言葉を引用して誘惑します。それに対して主イエスは「あなたの神である主を試してはならない」(7節)と言われます。

 

3番目の誘惑が8節以下にあります。悪魔がここで求めたのは、悪魔を礼拝することです。悪魔を拝んだ場合と神を拝んだ場合どちらが得か、問います。悪魔を撃退する方法は多くありません。ただ悪魔に対して退けと命令するだけです。真の救いは主の十字架と復活によってのみ与えていただけるのです。

 

主イエスはこの3つの誘惑に勝利されました。人と同じになられた主イエスが誘惑に勝たれました。主イエスご自身が誘惑を受けられ、苦しまれたゆえに、試みられている私たちを助け、十字架と復活の救いへと誘ってくださるのです。

 

                                                                                (98日礼拝説教要旨)