「あなたを救った信仰」 マタイによる福音書 9:18-34

 

主イエスは癒しの業を通して、神の国を示してくださっています。普通ではありえない奇跡の業を通して神の国が近いことを現してくださいます。

 

 

 18節にあるように主イエスは死んだ娘をなんとかしてほしいという指導者の期待に応えて指導者の後についていかれます。その目的地に着く途中で12年も出血が止まらない人が主イエスに近づいて服のふさに触れます。主イエスはこの人のふるまいをいっさいとがめられませんでした。さらに「あなたの信仰があなたを救った」(22)と言われ、その時にこの人は癒されています。

 

 

 主イエスは救いや助けを求めて来る人の切実な思いを信仰として受け止めてくださいます。あるかないか、わからないような信仰をも受け取ってくださるのです。私たちの信仰も人に誇れるようなものではありません。あるかないかわからないような信仰です。けれども主イエスはその信仰を受け止めてくださるのです。

 

指導者の家、そして27節以下では二人の目の不自由な人と口の不自由な人を癒されます。主イエスは、癒しの業を通して、神の国が近づいたことを現されたのです。

 

  

 主イエスが再び来てくださり神の国が完成する日に私たちのあるかないか分からないような信仰を主イエスが受け止めてくださり、罪の問題が解決していることが明らかになります。病気のことや死の問題、その他あらゆる問題も解決し、復活の体を与えていただく、そういう神の国が近いことが示されています。                                            

 

                                                    (5月3日礼拝説教要旨)

 

 

 

「天に富を」マタイ福音書 6:19-24


 
あなたにとっての富は何でしょうか。主イエスはそれらのものを朽ちてしまう地上に蓄えるのではなく、朽ちない天を仰いで生きることを勧めておられます。私たちはこの地上で生きて、この地上で死ぬだけの人生を歩んでいるのではありません。本来、神の前に罪を犯した私たちは、神の祝福が満ちている天とは関係がありません。けれども神は独り子の十字架の犠牲を通して、天に迎え入れ、ご自身とともに永遠に生きる幸いへと生かしてくださいます。

 

6章の最初のところで言われていたのは、施しについてでした。人に見てもらうため、人からの評価を得るための施しが問題になっていました。人からの評価、それは地上に富を積むことです。そうではなく、天に富を積むことが大切なのです。祈りに関しても言われていました。人に見せるための祈り、それは地上に富を積んでいる祈りです。そうではなく天に富を積む祈りがあります。

 

 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブライ人への手紙116節)

 

何よりも信仰が必要なのです。信仰のない私たちに信仰を与えてくださいと祈り続けることから、天に富を積むことは始まっていきます。

 

  天に富を積むと言っても、地上のものが全否定されているわけではありません。地上で生きていく上で必要なものもあります。将来のために蓄えていくことも必要です。けれども、この世で私たちが手にしているものは、やがて死ぬ時にはすべて手放さなければならないことを覚えておく必要があります。それらは神からお預かりしているものに過ぎません。お預かりしているものをただ自分のためにだけに使い果たしましたと言うのでは、小さい用い方になります。けれども地上で委ねられたものを神に喜ばれるように用いようとするなら、神はそれをいつまでも価値が残るものとして天における宝としてくださるのです。

 

「 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書155節)主イエスにつながっているなら、善い実を結ぶことになるのです。目に見える生産性とは違います。目に見える世界では、マイナスにしか見えなくても、主イエスにつながっているなら、善い実につながっているのです。天に宝を蓄えることができるのは今しかないのです。後の永遠の生活に比べれば、地上の生活はほんの短い一時にしか過ぎません。けれどもこの短い期間、地上で私たちがどう生きるかということが、その後の世界につながっているのです。

 

                                                                            (112日礼拝説教要旨)

 

 

「主の恵みの年」  ルカ福音書4:14-30



主イエスが会堂に入られ、礼拝しています。これから伝道される前に皆と共に礼拝されています。この礼拝が今日の教会の礼拝の原型ともいわれています。主イエスが読まれた(18-19節)のはイザヤ書61章の言葉です。「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(21節)この当時の人々が聞きなれていたイザヤ書の言葉が今起こっているといわれます。この言葉を語られている主イエスご自身こそ、この言葉をなされる方にほかならないのです。その言葉を聞いて礼拝している場所で、すでに解放の業がはじまっていると言われます。主の恵みの年がはじまっているのです。

 

 「ヨベルの年」というのが旧約聖書のレビ記の中に出てきます。50年に一度、ヨベルの笛がならされます。それまで自分の借金のため奴隷になっていた人が、自由人にされます。借金も帳消しになりました。様々な重荷、負い目が取り去られる時、人々の救いの時が、今すでに来ていると主イエスは説教されたのです。主イエス・キリストが来られ、その恵みの年が始まっているのです。

 

 それを聞いていた人々の反応が22節以下にあるように自分たちの思いと真の救い主である主イエスの違いに驚きを覚えます。

 

救い主は、もっと強く、高い人のはずだ、人々は好き勝手なことを言います。自分の思いと少し違うと神が間違っているかのように思います。人間は強くて高いところにいたい思いがあります。けれども弱くても低くても良いのです。たとえ誰からも認めてもらえなくても神が私の味方ならそれで良いのです。

 

新しくされていない古い存在のままだと、苦しいときに自分が拒絶され、見捨てられていると誤解してしまいます。その誤解が苦しめます。自己嫌悪になって、人からも愛されていないと思い込んでしまいます。

 

そういう私たちに主の恵みの年が告げられています。もう古いところに留まっていなくてもよいのです。神が新しくしてくださいます。主イエスによって新しくされているのです。 目に見えるものだけ見る限り、私たちは何も新しく創られたもとはいえないかもしれません。依然として罪の中にあり、その罪の問題ゆえに苦しんでいるかも知れません。救いの時がはじまっていないように見えるかもしれません。けれども主の恵みの年は始まっているのです。キリストを信じたといっても私たちが生きている現実が変わらないかもしれません。背負っている問題や、苦しみがなくなるわけではないかも知れません。けれどもその中で私たちは新しくされているのです。キリストによって新しく創造された者とされているのです。

 

                                                                                                  (元旦礼拝説教要旨)